今の仕組みでは、イジメは、なくならない。
人は、集団でいると、誰かを攻撃する生き物なのか。
常にマウントを取りたい生き物なのか。
残念ながら、そのあたりの知識は持たないのだが、現実として、いじめはなかなかなくならないし、なくなる気配も感じられない。
まるで、思春期の登竜門かのように、子供たちに襲い掛かる。
これまで、何人の尊い命が失われたのだろうか。
そして、いつまで繰り返すのだろうか?
学校が始まってしまう
新型コロナウイルスの影響で、3か月もの長い間、学校が休みとなっていたが、いよいよ、来週から始まる地域も多い。
今までは、コロナへの感染が怖くて学校に行いけなかったのだが、これからは、イジメが怖くて学校に行けない子供たちも少なくないはずだ。
イジメにあっていた子供たちにとって、この休みは、まさに天国だったであろう。
コロナは怖いけど、出来るならば、休みが続いてほしいと願っていたのではないだろうか。
その気持ちはよく分かる。
不謹慎なのは重々承知なのだが、コロナが続いていてくれたほうが、心は安らかなのだ。
これはこれで、子供たちの心を傷つけてしまう。
こんなことを考えてる自分は、なんてダメな奴なんだど。
本来、何も悪いことをしていないのに、この子達だけが、どんどん苦しむこの世の在り方は、絶対におかしい。
学校生活をおくるうえで、イジメはなくならいものだと仮定するならば、今までと同じ環境では、繰り返すだけなので、仕組みを変えるしかないのだ。
それは、子供たちでは出来ない事なので、われわれ大人がやるしかない。
オンライン授業の標準化で仕組みを変える
このコロナ禍で、私立を中心とした学校で、オンライン授業が始まった。
残念ながら、多くの学校が、この3か月間を無為に過ごしてしまい、オンライン授業が普及することはなかったのだが、オンラインが可能なことは証明できた。
デジタル世代である子供たちの方は、全く問題ないはずで、あとは先生方の脳が、デジタル化に対応していければ、十分実現可能だ。
確かに、対面でないと、やりにくいこともあるだろう。
肌と肌のふれあいが大切なのも、よく分かる。
だけど、果たしてそれは、マストなことなのだろうか。
対面でないと、学校教育はできないのであろうか。
もし、即答で出来ないと答える人は、完全に「思考停止」しているといえる。
学ぶ楽しみを奪ってはならない
イジメにあっている子供たちは、それを避けるために、不登校になってしまう。
不登校になると、当然、授業を受けられない。
学校に行かなければ、イジメの被害は受けなくなるかもしれないが、変わりに学ぶ機会が失われしまう。
結局、何かを失ってしまうのだ。
その代償を、なぜ、その子たちが負わなければならないのだろうか。
もし、オンライン授業が標準化できれば、どうなるだろうか。
学校に行けなくなっても、授業は受けられるのだ。
こんな単純で簡単なこと、なぜ、できないのだろうか。
躊躇することなどないはずだ。
本気でイジメをなくそうと思ったら、心の授業などときれいごとばかり言っていないで、仕組みを変えないと何も変わらないということを、肝に銘じるべきだ。
ダイバーシティの矛盾
オンライン授業は、イジメ対策だけに有効では決してない。
集団生活に馴染めない子供もたくさんいる。
教育という名のもとに、全員を十把一絡げに同じ行動をさせるというのはいかがなものだろうか。
軍隊でもあるまいし。
今、世の中は、ダイバーシティが叫ばれている。
社会では、ダイバーシティといいながら、学校では、画一的な教育をして、同じ行動様式を強制するというのは、かなり大きな矛盾ではないだろうか。
教育委員会の方たちや、先生方、よくよく考えてください。
教育とな何なのかと。
また、家が遠い子もいるだろう。
小さな子供が、遠い道のりを重いランドセルを背負って歩くのは、相当苦痛だと思う。
途中、不幸にも事件や事故に遭遇してしまうこともある。
2019年3月に警察庁交通局が発表した「歩行中児童の交通事故の特徴等について」によると、平成26年~平成30年に起きた小学生の歩行中の事故による死者、重傷者数は3,276人も発生している。
また、低学年ほど多く、小学1、2年生だけでほぼ半数を占めているようだ。
オンライン授業になれば、このような事故も避けることができる。
いくら注意しても、今後も登校中の交通事故はなくならない。
恐ろしい事件に巻き込まれる可能性も、なくなることはないだろう。
これらに対策は、精神論や理想論では、いつまでたっても解決しない。
悲劇を繰り返さないためには、仕組みを変えるしかないのだ。
今回のコロナを逆に良い機会ととらえ、変革していくしかない。
デジタルトランスフォーメーションで実現可能なのである。