女子プロレスラーの木村花さんの死が、世間に衝撃を与えている。
SNSでの心無い誹謗中傷が原因と言われているように、匿名性の悪い面が浮き彫りになってしまった。
どんどんエスカレートする集団での一方的な圧力は、凄まじい破壊力を持ち、人間を破滅させてしまう。
どんな思いで最後を迎えたのか、胸が痛む。
22歳、あまりに早すぎる死だ。
SNSは諸刃の剣だが…
SNSの浸透により、個人が活躍できる時代となった。
今までは、会社組織でないと出来なかったものも、SNSにより個人でも出来ることが多くなってきたことは、革命的な進歩である。
多様な働き方を選択できることは、多くの人たちにとって、この上ない希望となるのだ。
ここで、この流れを押しとどめてはいけない。
何事にも負の側面はある。
負の側面をいかに克服していけるか、これから試されるであろう。
あと、根本的なところとして、私たちは「死」について、もう少し考える必要があるのだと思う。
一度、死に向かい合わないと、やるべき事、やらない事、やりたい事、やってはいけない事が整理できない。
四苦八苦
人生はままならないもの。
生老病死。
生まれること、老いること、病に罹ること、死ぬこと。
これは仏教でいうところの四苦である。
これをなぜ「苦」としているのか?
それは、人がいかに頑張っても、お金を積んでも、強大な権力を使っても、逃れることのできないことだからだ。
自分の思うようにならないことで、どうしても避けては通れない。
さらに「八苦」とある。
これは、上述の四苦に、愛別離苦(親愛な者との別れの苦しみ)、怨憎会苦(恨み憎む者に会う苦しみ)、求不得苦(求めているものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ)を加えたものだ。
生きていく過程で経験する苦がここに表現されている。
会いたい人とは別れ、会いたくない人と会わなければならなず、いつまでたっても夢が叶わない日々、なかなか救いがない。
だが、これは、人間世界の真理であり、あとはこれにどう向き合うかがポイントとなる。
確実なのは死ぬことだけ
人は、日々、死に向かって歩んでいる。
これが唯一、確かなことだ。
こう言ってしまっては身も蓋もなくなるが、問題なのはいつ死ぬか分からないことだ。
人生100年時代とすると50年後なのか(年がバレる)、平均寿命だと30年後か、いや何が起こるか分からないので、明日かもしれない。
こんな、確実と不確実が入り混じった複雑な状況だが、死を起点に考えると、見えてくるものがあるのではないかと考えている。
いつ死ぬか分からないが、死ぬのは確実だ。
そうなると、いざ死ぬときに、心安らかに死ねるかが重要なこと。
死ぬときに、ああ良い人生だったなと思えるか。
つまり、死ぬときに、後悔ばかりが残らないように、生きていかなければならないということだ。
これが、死を起点に物事を考える上での結論ではないだろうか。
「今でしょ」はまさに格言
死を起点に考えると、今を生きるということに、より一層スポットがあたる。
もちろん、将来のために備えることも必要ではあるが、そればかりでは、備えただけで人生が終わる可能性がある。
将来のために、いかに我慢して頑張っても報われる保証はない。
では、「今でしょ」の局面はいつなのだろうか。
それは、今でしょと思った時だ。
人生には転換点がある。
それは、人生に迷った時、悩んだ時、苦しんだ時、逃げたい時、絶望感を抱いた時。
その強弱は、客観的なものではなく主観的なもので、その人にとっての基準だ。
なので、他人がとやかく言うべきものではない。
本人にしか、それは分からないものだ。
逃げるのも、恥じるものでは断じてない。
また、思い切って何かに挑戦したいと思った時、職を替えたいと思った時、独立したいと思った時、夢に挑みたいと思った時も転換点だ。
そんな時の判断基準となり、決断の源となるのが、この「死を起点として物事を考える」ということであろう。
やって後悔するか、やらないで後悔するか。
やるリスクと、やらないリスク。
この世の最後となる死の瞬間に、後悔するのはどちらだろうか??
最後に、「ああ、良き人生哉」と思える人生を歩んでいきたい!