「サラリーマンは、気軽な稼業と来たもんだ♪」
一度は聞いたフレーズではないだろうか。
これは、植木等の有名な「ドント節」だ。
この後、二日酔いでも寝ぼけていても、タイムレコーダー ガチャンと押せば、どうにか格好がつくものさ、と続く。
1962年の作品だが、今でも、様相は全く変わっていないのではないだろうか。
とりあえず、会社に行きさえすれば、恰好がつくのである。
テレワークで、成果(アウトプット)が求められるようになると、流石にこうはいかなくなるが、成果を出せない旧世代のおじさん達の頑強なる抵抗のために、コロナ後は、何事もなかったかのように、以前のワークスタイルに戻るのであろう。
こうなると、いつまでたっても生産性は上がらず、結果、日本の国力はどんどこどんどこと落ちていくのだが、また気楽な稼業に戻れると大いなる錯覚をしている人が多いであろうことに、もはや絶望しかない。
サラリーマン=安泰という錯覚
サラリーマンは安泰だと考えている人は、何も当人であるサラリーマンだけではない。
世間一般、総じてそう思い込んでいる人がなんと多いことか。
現実を認識できておらず呆れるばかりだが、この思いは岩盤のように固く、事態は思いのほか深刻だ。
先日、「会社を辞めて独立をしたいが、妻が反対して困っている」という相談があった。
夫婦間の意見の相違は、何も珍しいことではないが、問題は、なぜ反対しているのかというところだ。
このほとんどすべての要因が「お金の心配」なのは間違いない。
安定した収入がなくなるという不安。
ここまでの話、よくある話で何の違和感もないかもしれないが、ここに問題の根幹がある。
サラリーマンでいる限り、安定した収入が得られるという思い込みだ。
その思い込みが強いので、サラリーマンを辞められては不安になるのだ。
マインドセットは変えられるのか
この思い込み、マインドセットを変えることはできるのだろうか。
これを変えられなければ、夫婦間の仕事に対する考えは、一生交わらない。
会社を辞めれば、妻が不幸になり、サラリーマンを続ければ、夫が不幸になる。
育ってきた環境が違うから、好き嫌いは否めない♪
これは、ご存じ、セロリの一説なのだが、
サビの部分は、
がんばってみるよ、やれるだけ
がんばってみるよ、少しだけ
なんだかんだ言っても
つまりは単純に、君のこと好きなのさ♪
なのだが、そんな単純な話でもないのが現実だ。
もう十分、頑張ってきたし、もう限界。
だから、もう少しも頑張れない状態。
こんな状態だから、単に好きだからで済む話ではないのだ。
団塊ジュニアの宿命
このような感覚は、団塊ジュニア特有のものなのかもしれない。
団塊世代は、高度成長期真っただ中で、働けば働くほど、目に見えて暮らしが良くなったので、サラリーマンとして働くことに疑問は少なかったかと思う。
そして、その姿を見て育った団塊ジュニア世代は、サラリーマンが当たり前の世界という認識を植え付けられ、会社に就職するのが当たり前とされた。
では、今はどうであろうか。
一流企業と言われていた会社が潰れるのを目の当たりにし、終身雇用も、もはや期待できなくなっている。
生活面でも、既に十分満たされており、もはや欲しいものも特にない時代だ。
仕事の環境も、デジタル化により、個人でも働けるようになってきている。
こうなると、何のために働いているのだろうと疑問を抱くようになり、彷徨い始めることになる。
このような人は、予備軍も含めると相当存在するのではないだろうか。
残念ながら、先ほどの相談に対する明確な答えは、今のところまだ持ち得ていない。
今、言えることは、チェンジするための準備を着々と進めようということだけだ。
あとは、どこまで現状に耐えられるかが勝負。
だけど、無理は禁物だ。
もう一踏んばり、まではよいかもしれないが、二踏ん張り目はやめたほうがよいかもしれない。
もうダメと感じた時は、逃げるしかない。
もう、一目散に逃げよう。
三十六計、逃げるにしかず。
戦略的に逃げるのであって、後ろめたさは微塵も感じる必要はない。
そこまでいけば、分かり合えることもあるかもしれない。
そうあってほしいし、そう願うしかない。