本日は、「勤労感謝の日」ということだが、勤労の何に感謝をすべきなのか、イマイチよく分からない。
働いて給料を貰えていることに感謝するのか、それだと、会社に感謝する日みたいになってしまい、しっくりこない。
働くことで、結果的にご飯を食べられていることになるのかもしれないが、「働かざるもの食うべからず」といったニュアンスも、あまり好きではない。
少なくとも私自身は、出来れば働かなくても生きていかれるようにしたいと願っている。
そもそも勤労感謝の日とは何かというルーツを探ってみると、その歴史はまだ浅く、1945年のようだ。
もともとは、『新嘗祭』というその年に収穫された新米や新酒を天地の神様に捧げ、天皇と国民が一体となって、天地自然の神々に感謝し、収穫を喜び合う国民的な祭典であった。
新嘗祭は、飛鳥時代から始まるお祭りであったのだが、GHQが、日本を弱体化させるために、国家神道色が強いこのお祭りを廃止し、勤労感謝という訳のわからない名前にしたようだ。
戦争という過ちを犯した日本人は、働いて米国に尽くせ的な、まさに「WGIP」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の一環の政策だったように思う。
戦後、日本人はこのWGIPによる洗脳教育により、ずっと自虐史観にとらわれ続けているわけで、ここから早く脱却しないと、いつまでも国として自立できない。
勤労感謝などと有難がっていては、ダメなのだ。
祭日を新嘗祭に改める
新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告をし、これらを神からの賜りものとして自らも食する儀式である。(ウィキペディアより抜粋)
これは、今も毎年、宮中で行われ、また全国の神社で執り行われている。
五穀豊穣を感謝し、また祈ることの方が、日本人には適していると思う。
五穀とは、米・麦・あわ・きび・豆を指すが、日本人はとりわけ「米」には特別な感情を抱いている。
近年、パン食が増えてきているが(これも戦後、米国から小麦を買わされたことによるが)、それでも米のことは、「お米」と「お」をつけて敬っている。
日本人は、大切なものには、この「お」をつけて敬っている。
お米、お味噌汁、お新香、お魚、お肉…。
おパンとは言わない。
勘違いしないでほしいが、決してパンを毛嫌っているわけではない。
日本の歴史と日本人のDNAの話をしているだけだ。
そんなおおげさなと思われるかもしれないが、お米に特別な感情を抱いている例として、日本人は、お米を一粒残さず食べる習慣がある。
一粒でも残すと目が潰れると言われてきたように(これは流石に最近では言われないかもしれないが)、やはり我々世代は、今でもお米を残すことには抵抗がある。
それでも、そんな大仰なということになるかもしれないが、これが日本人のDNAだし、このような歴史と伝統を1年に1度でも感謝し、祈るという日があってよいと思う。
そのために、この11月23日は、勤労感謝の日ではなく、「新嘗祭」に名を改めるべきだと思うのだが、どうだろうか。
こうしたことを積み重ね、少しずつでも歴史と伝統を取り戻すことで、自虐史観から解放されるだろう。
WGIP、罪深いことをやってくれたものだが、平成を挟み、令和の時代になったことでもあるので、この時代に、日本を取り戻さなければなるまい。